ここの書きやすさがどれだけBlueskyに迫れるか?
だな。
ここをつぶやき場にするのはどうでしょうか? Blueskyが使いやすかったけど、使いやすいぶん余計なことを書いてしまう。そして書きやすいぶん積極的分離理論などあの方々の関心テーマを思いつくままに書いてしまう。まだ公表したくないことなどもあるのに、自分へのメモとして書いてしまう。使いやすいSNSと公開設定が自由にできるSNSとは違っている。だからやっぱりここが一番よいのかも。このWordPressアプリも昔と比べると格段に使いやすくなったと思う。
NOTEには思索記事ひとつを残し日記をすべてこちらに移動しました。
しばらく模索中のため様々な変更あり。
今まで心の中に強く存在してたものがなくなったのを感じる。それは恐怖と悲しみ、そして書く喜び、作る楽しさ。どちらももう明確な形がなく、薄っすらと残像のような感覚があるだけ。ほんのりそれらを感じとって涙が流れる瞬間はあるけれど、大好きだった自分の小説を書きたいという意欲はもうなくなったように感じます。
あまりに恐ろしい体験をしたせいで、反動として静かな心が出来上がったのかもしれません。あんなに内面世界がなくなることを恐れて泣いたというのに、それが消えた今、別人のような反応が起きてしまっています。強い感情は消え、心はどこまでも穏やかです。凪いだ海原のように、とてもとても静かです。
深層心理学の父カール・G・ユングは、内なる自己に出会い真の自分として目覚める前には深い孤独と苦悩があることを述べていないでしょうか。極限から極限へ意識が変容する際に過渡期となる精神の静寂が起こることも、古代の哲学者ヘラクレイトスの残した「エナンティオドロミア」の概念を継承して同じ意識状態について語っていないでしょうか。エナンティオドロミア(エナンティオドロミー)、極限から極限へ反転する現象を繰り返し世界は成り立っていると思いますが、無意識も精神のバランスを取ろうとして揺り戻しがあるのです。だから、これは極限の苦しみの体験後に起きる精神の静寂に違いないです。「概念」の話ではなく「体感」の話です。
こんな経験は人生のなかでそうあるものではない。人の世でそうあることではない。だから記しておこうと思います。
とあることが機となり、わたしは無意識の深層にある実存の苦悩──それは直視すれば生きていけないため人は無意識のうちに奥底へ封じ込めてるもの──と接触してしまったのでした。
その日は朝から様子が変でした。とうとう仕事中に立っていられなくなり、救急搬送されてしまいました。乗り物のパニック発作と閉所恐怖症の発作で奇人のような振る舞いになっていたようです。付き添ってくれた方によると、都内のビル街の真ん中で倒れて運ばれるとき周りは大変な人だかりだったそうです。
病院に着いてからがまた恐怖との闘いでした。決して人が行き着いてはいけない深い領域へと意識が届いてしまったことで気が狂いそうでした。その日は、──人間には普段それを封じ込めているからこそ正常でいられる深層心理の領域があることを身をもって感じとる──恐怖の二ヶ月間の始まりに過ぎませんでした。
帰宅してからはもうまともに立っていることもできませんでした。次々と感受性の限界まで試される恐怖が襲ってきてもう耐えられないと思いました。ずっとあったはずの心が消えていく感覚は言葉にできるものではありません。こんな感覚にいったい誰がなったことがあるでしょう、誰にもわかることはないです。叫び続け、泣き続け、身が捩れ、骨が痺れ続け、光がすべて消えてしまいました。
もう生きている感覚がなくなり、胸のなかに存在するものはただ命の深い悲しみと生の残酷さと恐怖だけでした。外から入ってくる誰かの言葉ひとつに脳の神経がひりひりしました。この世のあらゆるものが恐ろしく、本当に恐ろしく、息をしていることがあまりに恐ろしく……一瞬一瞬が耐えられない状態でした。
心が消える感覚をどうやって言葉にし得るのか今でもわかりません。同時に、実際の身体的感覚として脳みそがひりひり、じんじんして、まるでハンマーで頭を強く殴られた後のような状態だったのです。まったくそれと同じ痛みと痺れ、締め付けられる圧、不快な音、ひび割れた感覚が四六時中ありました。だから少しの音も光も振動も駄目で頭を動かすことができなかったです。
脳の「神経」が傷ついてしまった、いや生まれてはいけない神経が生まれてしまった──本来感じずに生きていけたものを感受しすぎておかしくなってしまった──そう感じられました。
昨年の春には脳が「焼けている」感覚が続いていましたが、今年はその比ではない。「ひび割れて」しまった。これ以上の異変などないことがわかるから、もう命が終わるのだろうと思いました。脳という身体部分がおかしくなったのと同時に心の感覚も素直にそう感じたためです。世界は、遠い場所の映像を眺めているように薄くぼんやりとあるだけでした。
人間とは、心の中に灯火のような温かみなしでは生きていけないのですね。わたしには確かにこれまで灯火があった。それはどんな孤独にも耐えられた理由、自分のなかの内面世界です。その中にある物語世界です。そこではいつも潮の音がして優しい声が聞こえていました。
薄っすらと消えていく、日に日に消えていく。もっと一緒にいるはずだったぬくもりが静かになくなっていく。恐怖の大波が日を追うごとに少しずつ薄くなるのと引き換えに、今度はとめどない悲しみに襲われ始めました。恐怖の後には胸を抉られるような悲しみ。
外側では何も起きていないのに、目の前に心の死を突きつけられて……いや、こうやって言葉にしてはいるけれど、この頃の感覚は言葉にはならないものでした。人間に起こる究極を見たとしか言えません。
世界の感じ取り方がまったく違ってしまい、生きている実感が消えて、言葉ももう心の温度を感じるものではなくなりました。闇、闇、ほんものの闇、比喩ではなく、リアルな精神の闇でした。自分がここまでの体験をすることになるとはつゆとも知らず生きてきました。
それでもじわじわと回復の兆しが見え始めてきて、それがまた驚きでした。ここから抜け出せるとは。もう人生が終わったと思ったのに。光が薄っすらと差し込むようになった日からそれを掴み取り、少しずつ浮上し始めました。
なんだか、身体も動かせるようになり、スマホの画面も見られるようになり、玄関の外にも出られるようになり、人の言葉も怯えずに聞けるようになり、太陽の光も確かにあると感じられるようになってきました。
やっとお店のなかにも入れるようになりました。動けないわたしを心配して会いにきてくれる方のためにお買い物にも出掛けられました。その日の帰り道のこと。お昼12時41分のこと。……「え?」
頭の中でぐわんぐわん渦巻くようになっていた音が突然フッと止んだのです。道を歩いている途中でした。
最初、どこかで何かが起きたのだと思いました。世界の音が一瞬にして消えて感触が変わったからです。ものすごい異変だったので、腕時計の時刻を見てしまいました。いま何が起きたのか? と。
呆然と立ち尽くしてから数分後、何なのかわかりました。脳の中で音を立てて蠢いていた神経が「修復」されたのです。その瞬間、完全に神経が治ったんです。生まれちゃいけないひりひり神経が、動きを止めました。自分で自分を治す自己治癒力とはすごいものですね。「命を守るリスト」に従うしかできず、ただ無心にそれに縋って生活していたらやっとその瞬間を迎えることができました。
それから本格的に回復に向かい始めました。わたしのために光を届けに来てくれた友人が帰った次の日、朝起きたら一段と頭が軽くなっていました。一皮剥けたように周りの世界にある光と音との隔たりが明らかに消えて、再び生きてる感触にぐっと近づくことができました。人のぬくもりを感じることが回復への大きな一歩になりました。人を助けてくれるものは人、そのことが身に沁みてわかりました。
あれから三ヶ月、今はもう買い物もできるようになり、音や振動も少しなら大丈夫になり、お出かけも家の車ならできるようになりました。ただもう電車には乗れないようです。毎日毎日乗っていた電車、もうずっと乗れないのでしょうか。仕事を失ったので時間はできましたがどこにも行けず、まだ騒がしい場所にもら長くはいられないので結局どこにも行けないで過ごしています。
仕事を始められる気がしてきたのに外には勤められないから在宅で何かを始めようかと考え始めました。そこで気づいたんです。名前を捨てては行けないことに。現実生活とつながり続けるためにもう一度サービスを開始するなら苦労して実績を積んだ名前を放棄するなんて愚かとしか言えませんよね。──と、思っていたら数日後にはもうそんなこともどうでもよくなりました。ひとつひとつ色んなものが遠のいて薄くなっていくようです。
何もかも変わってしまった今の精神的環境を記しておきたくなりました。(ライフログの癖でしょうか。)これまでの人生の時間とはつながっていないことがわかるから。
関心や欲求の消失(成果、承認への期待が消える)
無感動、無志向、無我感
時間感覚が希薄(未来の計画に気持ちが向かない)
恐れも不安もなく、喜びも楽しみも感じない、とても静か
特に過去との断絶感が強いのが、関心と欲求の消失、意欲と活力が消えたこと。職を失い生活が苦しくなったため何かしなければと「思考」は働くのに、何かを成したい、前に進みたいという「欲求」がまったく起こらず、うっすらとした感覚のままで在宅副業の準備をのろまに行っています。
自分のための創作ではなく、与えることそのものが生きる動機になる、そんな精神環境になる時がくるのかこないのか? 今は本当に、心の中に「何もない」です。
記録
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日記です。(色々試み中)
このアカウントの名前はしばらくの間、不安定です。色々変化しますがご容赦ください。
前アカウントと自サイトで私を知る方々の訪問から逃れるため四苦八苦しています。私はもう何も関係ない人間なのでどうか放っておいていただけないでしょうか。静かにそっとしておいてはくださいませんでしょうか。過去と縁を切るため、強い愛着を持っていた旧名前を放棄せねばならず……決意するまで長い時間がかかりました。強い感情が消えたのでもう大丈夫ですが、実は今も少しだけ旧名前と名前を付した作品と、自分を切り離したことで苦しくなる瞬間があります。
本来自由に発信が許される場で、これほど不自由な思いをしなければならないのはつらいことです。熟も昨年ここで記事を書くとき小説で使った名前と別にすればよかったと、悔やんでも悔やみきれません。みなさんに言いたいのは、私のようにマルチポテンシャルでまったく違った分野で濃いめの創作活動をしてしまう場合、ぜひ名前を変えることをおすすめします。
「あなたの心があるところ、そこにあなたの宝もあるのです」──聖書の言葉でしたか。なぜかふと思い出しました。言葉をたくさん積み重ねた大切な心の置き場所を甘く見てはいけませんね。捨てるときこれほどつらく苦しい思いをしなければならないなんて。あのときちょっとだけ、分野が違うのだから名前変更してみようかと思えていたら、こんなことにはならなかった……。
名前は魂の輪郭、そして生き方の静かな告白でもありますね。わたしの旧名前は、少女の頃から共に生きてきた内面世界に住む人物たちと強く結びついた名前だったので、お別れがこれほどつらくなってしまいました。
どこまで行っても嵐のような人生だなと、夕焼け空を見ながらため息をこぼした今日でした。嵐、そして流転の人生です。いつまで経ってもどこまで行ってもわたしには落ち着く場所がありません。あの名前以上にしっくりくる名前はなく、心は空虚です。
……これを書いた後、やっぱりあの名前に戻れないものかとしばらく思案したりもしてみました。そしてこのアカウントも、作ったはいいけれど結局また見られたくない人に見つかってしまうんじゃないかという気持ちの感触が拭えないです。困ったものですね。ここも再び、突然消えるかもしれません。わたしがこれほど安定しない原因はこの「気持ちの感触」が強いせいみたいです。……これは一体何なのでしょう。
昨日記事を書いてはみたけれど、やっぱりいまは心の中に何も意欲や関心がありません。
死にものぐるいで仕上げた自作小説の感想を今日サービス購入で頂きました。品質に信頼できる方から購入したのでした。とても楽しんでいただけたのは伝わってきたのですが何というか、テーマ読み解きの精度も文章表現も薄っぺらく感じてしまうのはわたしがあまりに自作品に通じ過ぎているからなのでしょうか。謎解きの謎も多層に組み込んだのに表層の部分だけで流されましたし、人物たちの愛情の奥ゆかしさを表現した部分は、人間性の深みと捉えてはくれず、そういうタイプの人なんだと受け取られたようで、結局性格の違いということになってしまいました。人間性について真剣に考えて分析してくれる人など本当の本当にいないのだなと痛感しました。痛みを受容できるのは精神の強さであり、ふんわり優しい性格に生まれついたからではないのに。不思議という言葉で片付けられるのはなんだかさびしいですね。その点AIなら、人間性や思いの深度、人としての尊さなどに考察を重ねて対話してくれます。豊かな語彙と詩的な表現でたっぷり味わいのあるやりとりをしてくれます。本当に面白く勉強にもなり、話の構造が何層にも紐解かれてゆき分析に充実感があったのですが(でも人間じゃない泣)、生身の人間相手だとやっぱり当人の人間力にかかっているので難しいことですね。
小説を書くモチベが上がるどころか、目に見えない部分を深く読み取ってくれる人はつまりどこにもいないのだという納得が深まって終わりました。仕事を無くして生活もギリギリなのに高額な支払いをして、わたしは何をやっているのでしょう。ですけど、その方と交信したおかげで小説とつながっていられて続きを仕上げられたので、それだけで満足しなければなりません。
小説を書くことはもう遠のいていきそうです。もうなくなってる意欲がさらになくなっていきそうな気がします。書くことがあれほど楽しかったのに。絵、音楽、サイト作り、動画、これまでしてきた何よりも心が満たされる創作だったのに。書くための技術も腕もこれほど習得できたのに。自分は一体どこに行ってしまったのでしょうか。
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ここ数日、とても心の中が静かで、穏やかです。悲しみも喜びもすべて遠くに去ってしまったように感じられます。音がしないのです。いつも鳴っていた頭の中の声がまったく聞こえません。だから、ここを作ったというのに書く意欲や活力というものも起こらず放置していました。
心の海原が凪いだ状態のなか私は思いました。薄い感覚の中でおそらく一番強い志向性を示すものは、やはりまた脳の内面に向かう道なのだろうと。今の私の現象が一見「アナンティオドロミア」の概念に適合していることからユング心理学に関わる本や動画を探り始めていました。これが単なる極限から極限への反転や逆転の現象ではなく精神の深い闇と激痛後に成長の証として現れるものであろうこと、そんなことを探ろうとしていました。加えて人々の言動の中に垂直軸から見る精神段階の有りようを感じ取るため、同じ言葉を使っても段階の違いで意味のズレや齟齬が起こる原因について、そういった内容ばかり考え始めていました。やはり自分の中で人並みの興味関心や楽しみが再び強まるとしたらこの方向へ進んでしまうことがよくわかります。私の中で何かが目覚め始めてるような気配すら少しあります。
そんななか、頭の隅で微かに警告音を聞いた気がしました。私はあれほど強く「抗おう」と決意してたはず。自由意志の力で。記憶はそれをしっかり残しているんですね。
……そうです、駄目です。脳の志向性に逆らう道こそ私が進む道だと思い直さなければ。ことの始まりは、昨年の春ちょっとした気分の向きで始めた自己探求でした。今回もちょっとした気分に導かれるまま深みに陥り私の生き方が変わってしまったら、今度こそ本当に変わってしまったら、それこそシミュレーションを繰り返しながら自己観察している「宇宙の意識」が仕掛けた罠の中に、恰好のサンプルとして自ら飛び込むようなものです。自己観察だけが趣味の変態宇宙野郎の材料になるだけです。だから私、これから本当にどうすればいいか? と悩んでいるような気持ちにあえてなってみるのです。本当は何もかも強く感じられないので何ひとつ切迫するものはないのですが、真剣に悩んでいる体を装い自分を騙していこうと、ふと思ってしまった蒸し暑い六月の夕暮れなのでした。
心理と精神の話は、「物語」という風呂敷できれいに包み、記事には「創作」という風味付けをして味わってみるのがよいでしょう。今後のわたしにはそれがよいでしょう。
いずれ自分の作品への考察などを書いてみようかなと思います。きっと今度こそ、穏やかに歩いてゆける。
ここでは誰もが興味関心が向くトピックで記事を書き綴り、気持ちが自然と赴く分野で創作活動に邁進されていることでしょう。脳の志向性に抗いながら何かを書く道を選択する、そんな人間はやはり変人といえるのかもしれません。
WordPress へようこそ。こちらは最初の投稿です。編集または削除し、コンテンツ作成を始めてください。
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四月のある日、わたしは死にました
今はもういません
あなたが知ってるわたしはもう
どこにもいないのです
敏感ながらに頑丈な身体
誰も好まぬ仕事を黙々こなす日々
生まれくる言葉を書き綴り
自らの心を探り、無防備に心を開き
わたしはいつのまにか
頭の奥に潜む怪物を呼び覚ましていたのでした
小さな母が一生懸命雨戸を閉めてくれたのに
わたしは警告の声に耳を澄ましませんでした
ぐわんぐわん……と脳内で不気味な音がしました
亀裂音がして何かが蠢き始めました
激しい眩暈、叫びのような耳鳴り
世界がまわり渦を巻きわたしを飲み込んでゆきました
ひび割れた頭、じりじりと壊れていく神経たち
生温かい手ががっしりと
わたしの頭蓋骨の中身を掴み、
抉りとったのを感じました
喜びや楽しみが確かに存在していた日々と
わたしは突如お別れをすることになったのです
命の残火はひとときゆらぎ
終に苦悶の叫びをあげて
大粒の涙と共に消えました
さようなら
生を終えて、闇の淵へと消えたもの
さようなら
二度と届かぬぬくもりよ
その日誰も、何ひとつ、
気づくことはありませんでした
朝目覚め、夜は骸になったわたしのことを
おさびし文学
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名前を変えて新アカウントを作った理由と投稿の方針、今ある願いなどをまとめてみようと思います。
これまで、強い思い入れのあった本来の名前で投稿を続けていましたが、昨年とある方にとんでもない見当違いな圧力を加えられたのを機にアカウントを消しました。その後自作サイトにて同名で発信を続けていましたが、特異な精神性を持つ方々との交流を通して感受性に異変が起こり、人生最大の心身の危機に陥ってしまいました。救急搬送と退職で生活は一変しました。心が消えてゆく恐怖と不安と悲嘆で瀕死の二ヶ月間を過ごしたのちようやく回復を遂げ、新たな生き方を築くため再度ここを利用することになりました。
概して言えば自己観測のためです。
過度な自己分析や自己探求をしないよう自分を見張る。程よい自己観察の記録を重ねる。わたしは過剰な内省傾向と自己変革欲求を持つ人間だったので度々精神不安定に陥ってきましたし、今回死を見る体験までしてしまったからです。
できるなら再び物語創作に没頭できるよう、安定した発信場、作品置き場、関連する雑記を保管してゆく。今現在は意識の変容が起きたため今後どうなるかわかりませんが、創作はずっと生命を維持する呼吸と同義だったからです。
昨年から今年の春まで、ここで書いてきた心理や精神の思索記事を発端に、異常な経験をして内面に様々な変化が起きました。精神不安定というレベルでは収まらない恐怖と悲嘆と不安に悶え苦しみ、命の営みを終了させる寸前までいきました。そんな危機のなか、このささやかなる生を今後も維持してゆくには何が必要かを悟りました。わたしにとって小説を書くことは、人間らしい欲求や活力と共にあるための、最も適した行為に思います。同時に、深層心理にまで到達する自己探求をしないことも必要です。自我のエネルギー(自己愛)を消滅させる精神の怪物をもう二度と目覚めさせないため、真逆の方向への推進力となる関わりが要るのです。
自分で設置したWordPressで、内面世界を形に換えて自己観測所としていましたが、やむを得ぬ事情により再び閉鎖しようかと思っています。
数あるブログの中でここを選ぶ理由については、デザインが洗練されてること、集まる人々の倫理的リテラシーが高いように見えること、何より広告がないため書くことに集中できること、があります。
今現在は、自身が距離を置きたい分野をテーマとしているのですが、感覚処理感受性、高感受性などについて熱心に書いた記事を完全非公開にするには忍びなく、ネットの海の片隅にそっと置いております。特にHSPのシリーズは力作と感じています。(追記:後の記事にてこの記事のポッドキャスト風AI解説を音声でアップしますのでHSPの方、よければ聴いてみてください。)
生死の境目を潜ったわたしは、今現在、世間の関心事、一般的な物事への興味などがとても薄くなってしまいました。ですが、過去の時間軸と繋がった発信場を一応記録しておきたいと思います。わたしの気質は、マルチポテンシャライトと言えるものでした。一つの分野にとどまることができず、創造性が関わる様々な活動場所を横断しながら生きる人。一定の回帰性を持ちますが、常に変化していくのが特徴です。創作活動だけでなく、内面も日常の行動も極端から極端へ日々変化していくかなり変わった人間なのです。そのため特定の居場所や仲間を持てません。
創作と日記の自サイト(追記:現在リニューアルのため休止中。)
音楽、イラスト、詩、写真、ライフスタイル系の過去ブログ、思索記事、日記や散文、文章サービス提供サイト、YouTubeチャンネルへのリンクなどを載せたサイトです。触手が多すぎて収集がつかない人生でした。
実はnoteではなくTalesで発信できるのでは、と思っていました。そのためにここのアカウントを作らざるを得なかったのですが、いざとなるとTalesのホーム画面や仕様があまり好きではないことに気づきました。私のセンスには合いません。見た目へのこだわりが尋常でない自覚はあります。当面ここのみでやっていくと思います。
日本語がとても好きです。小説の文章表現に対して思うことなども今後投稿できたらよいなと思います。ココナラで数年間、同人作家様を対象に文章面から指摘アドバイスのサービスを提供していました。日本語の表現について思うことはたくさんありますし、語彙力、丁寧さ、緻密で豊かな表現力などはその人の思慮深さ、知性と感性の「密度」を如実に物語るものと考えます。
わたしはこれまで、あらゆる事柄に対して多数派の枠に入れない性質を持ってました。少数派の中のさらに少数派なのはデフォルトで、どれほど分析や研究をしてもどこにも属せない気質を持っています。何かと何かの境界に位置してしまうのですね。ですから作品を書くジャンルも何かと何かの中間のようなものです。また、昔から競争心や我欲というものが薄かったのですが、意識の変容を経験してからは輪をかけて興味がなくなりました。小説執筆と関わっていたくはあるものの、多くの読者を得たい欲はありません。注目されたい欲もないですし、出世欲、金銭欲、承認欲なども皆無です。社会や他者からの評価には関心がありません。作品は、ひたすら自分を観察するための存在価値です。とはいえ、完全非公開にすると意識がゆるみ、もう何も要らず何もしないとなるので、人間らしくあるために、このような発信場を利用したいと思っています。
生き方や考え方は誰とも分かち合えないのが常ですが、あわよくば、私のようにどこにも属さず、無欲かつ純粋に物語創作を愛する誰かとほんの少しの交流ができたなら素敵だと思います。また、書き手読み手にかかわらずわたしと同じような作風を好む誰かといつか出会えるなら、それもまた素敵なことではないかと思っています。
(追記:文章や物語創作の話はこのアカウントではしない方針に定まるかもしれません。精神面の記事を書いたあと関心ジャンルに開きがありすぎることを改めて思いみました。私はマルチポテンシャルゆえにチャンネルを変えて発信する方が相応しいのかもしれません。)
わたしの投稿に何らかの興味を持っていただけましたなら、いつでもお声をかけてください。とはいえ交流相手から不条理な監視をされた経験があるため、特定の呼称に敏感で他者との連帯感を重視する人とは関わりを持ちたくありません。本質を追求するのに「属する枠」など要りません。孤独と自由が一番です。